廊下の突き当たりの部屋


廊下の突き当たりの部屋

「しかし、畑田君を講師にする以上、彼はこの大学には残れない。

 

早々にどこか遠くの大学にやるつもりだ」

 

どこか吐き捨てるような感じだった。

 

愛弟子とそうでない弟子との差。

 

寛は、不肖の弟子ということなのか。

 

あるいは、父は、彼と母との関係を知っているのか……。

 

侑香は寛に対して同情を覚えた。

 

今日はゆっくり眠りなさい、遠見教授は娘にそう言って寝室の奥に消えた。

 

さすがに、その後ろ姿は寂しそうだ。

 

父を見送ってから、侑香は2階に続く階段を上った。

 

恵介の顔が、頭をよぎる。

 

彼に対する優しい気持ちは、もうなくなっていた。

 

そばにいたい、いてほしいという気持ちも起こらない。

 

今思えば、彼との結婚を楽しみにしていたのは、自分ではなく、むしろ母の方ではなかったか。

 

恋愛感情がない、というと、ドラマのような激しい恋愛感情は、結婚生活には不必要などころか、害だわよ、と笑っていた。

 

侑香は、そんな母の考え方、生き方が好きだった。

 

そんな母が、もういない。

 

父母のために、恵介と結婚するのか。

 

そういうふうに思ったこともあった。

 

そうじゃない。

 

確かに両親は喜ぶだろうが、自分はそんな親孝行娘ではない。

 

これから将来、居心地のいい人生を送るために、幸せになるために、この人と結婚するんだ、と言い聞かせた侑香だった。

 

しかし、母を喪って、その考えが根底から覆されているのに、侑香は気づいた。

 

恵介との結婚生活は、母なくしてはあり得なかったのだ。

 

恵介が母の葬儀に出なかったとか、この間侑香のそばにいなかったからという理由ではない。

 

もし、恵介がそうしたとしても、同じであったろう。

 

恵介が悪いのではない。

 

侑香は、自分の部屋の前を通り過ぎて、廊下の突き当たりの部屋に入った。

 

そこは母が「衣装部屋」とか「裁縫部屋」と呼んでいたところである。

 

壁の一方にタンスが並び、窓際にミシン、ロックミシンが置かれた机がある。

 

型紙や布きれ、椅子の背にかけられた服など、この部屋の中の物は今もなお、亡き主の帰りを待っているようであった。

 

この部屋での母とのやりとりを懐かしく思い出しながら、侑香は机の引き出しを開けては閉めていた。

 

歯科病院の診察券、どこかの店のバーゲンのチラシ、未整理の写真……いろんな物が雑然と詰まっている。

 

こんなにアバウトな性格でよく服が縫えるものだと冷やかす侑香に、要は集中力なのよ、と笑いながら答える母の顔が思い出された。

 

左側の一番上の引き出しを開けたとき、ゴロッという音がして、中からハンディビデオカメラが出てきた。

 

それまでのどの物とも違うメカニックな形に惹かれて、侑香は思わずそれを手に取っていた。

 

(こんな物を持っていたなんて……知らなかった)

 

電子レンジの使い方もよくわからず、レンジから流れてくる人工音声の指示に「あなたの言っていること、ちっともわからないわよ」とむくれていた母が、このビデオカメラを使いこなせていたのだろうか。

 

そういえば、侑香には、母が何かを撮影しているところを見た覚えはなく、撮影したビデオを見せられたこともなかった。

 

侑香は、ビデオカメラの中にデジタルビデオテープが入っているのを確認した。

 

再生ボタンを押してみると、すでにテープの終端に達していた。

 

巻き戻してみる。

 

(なんだか、わくわくする……)


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